答志島の風景 ― 2025年09月07日 22:25
答志島の風景です。
ある池にオオウナギのいたという伝説、事実があるようです。
防波堤に変わったフェンスが取り付けてありました。
万葉集の歌人、柿本人麻呂の歌碑がありました。
釧着く 答志の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
くしろつく たふしのさきに けふもかも おほみやひとの たまもかるらむ
釧(くしろ)とは、装身具の腕輪。
現代語訳 美しい釧(くしろ)をつける、答志の岬に、今日も大宮人たちは藻を刈っているだろうか。
持統6年(692)の伊勢行幸に参加しなかった柿本人麻呂が、天皇の行幸先を空想しながら、鳥羽の港から、答志島とその東海の岬から伊良湖崎へと、順次船が沖合に向けて移動してゆくにつれて展開する風物を詠んでいるそうです。
この歌は、万葉集とは関係なさそうです。
寝屋子制度(ねやこ)というのが答志島にまだ残っているそうで、
中学生になると 10名程度の集団で、金曜日から寝泊まりして
集団生活をして、漁師になる教育がなされるとか………。
14ほどの寝屋子があるそうですが、実態は、不明です。
答志島探検 ― 2025年09月07日 23:00
三重県で一番大きな島 答志島へ 初めて行ってきました。
鳥羽駅近くから フェリーで 20分程度 2.5km先にあります。
比較的 便数も多い感じです。
島に着いたのが11時過ぎでしたので、昼食に海鮮丼を食べましたが、
まだ動いているエビがのっていて、かわいそうですが、おいしく食べました。
鳥羽は、九鬼嘉隆の領地で、関ヶ原の戦いで、子どもの守隆と西軍と
東軍に別れて戦い、西軍に付いた嘉隆は敗れて、この地で自害したため
首塚や胴塚 血洗池 などが残っています。
また、蟹穴古墳と岩屋山古墳が残っています。
家々に丸八マークがついており、八幡神社の氏子の印だそうで、
家の壁に書いておくと 海の安全が保たれるのでしょう。
4時のフェリーで帰ってきました。相変わらずの猛暑の1万5000歩
でしたが、ほとんど木陰の道に救われました。汗びっしょりでした。





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